平成30年度静岡大学入学式を挙行しました。

2018/04/05
ニュース

 平成30年4月4日(水)にグランシップ 大ホールにおいて、平成30年度静岡大学入学式を挙行しました。
 当日は、新たな門出にふさわしい晴天にも恵まれ、新入生は、会場入口で先輩学生たちから祝福のエールを受けながら、緊張した面持ちで入場しました。

 式に先立ち、鈴木 亘氏の指揮により、静岡大学混声合唱団による静岡大学学生歌「われら若人(高島 善二:作詞 石井 歓:作曲)」と「花(武島 羽衣:作詞 滝 廉太郎:作曲)」の合唱があり、続いて三田村 健氏の指揮により、静岡大学吹奏楽団から「アルメニアン・ダンス・パート1(アルフレッド・リード:作曲)」と「宝島(和泉 宏隆:作曲)」が演奏され式典に華を添えました。

 式では、石井 潔学長から、学部生2,037名(編入学生を含む。)、大学院生655名の新入生に対して、入学が許可され、石井学長からは、「本日新たに私たちの仲間に加わった新入生の皆さん、共に学び合い、共に語り合い、そしてこの世界を少しでも住みやすい「文明」的な場所にするべく互いに手を携えて前進しましょう。」と式辞がありました。

 続いて、新入生を代表して、理学部生物科学科 相原 柊介(あいはら しゅうすけ)さんと大学院総合科学技術研究科情報学専攻 黒田 和矢(くろだ かずや)さんからそれぞれ、静岡大学での新たな第一歩に向けて力強い宣誓が述べられました。
 また、平成13年3月に本学人文学部を卒業され、現在、九州産業大学経済学部准教授として研究及び教育の場でご活躍されておられる 広瀬 恭子 さんから入学生への歓迎の言葉として、心温まる先輩講話をいただきました。

 新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。これからの大学生活をともに活気ある有意義なものにしていきましょう。

 石井学長から、入学生へ式辞がありました。

石井学長から、入学生へ式辞がありました。

 学部入学生代表者 理学部の相原 柊介(あいはら しゅうすけ)さんから入学生宣誓がありました。

学部入学生代表者 理学部の相原 柊介(あいはら しゅうすけ)さんから入学生宣誓がありました。

<平成30年度静岡大学入学者数>

○学部(学士課程)
人文社会科学部   443名
教育学部      304名
情報学部      247名
理学部       238名
工学部       556名
農学部       199名
地域創造学環     50名 計 2,037名
※人文社会科学部、情報学部、工学部、農学部には編入学生を含む。

○大学院(修士課程)
人文社会科学研究科  32名
教育学研究科     42名
総合科学技術研究科  520名 計 594名
         

○大学院(博士課程)
教育学研究科      7名
光医工学研究科     5名
自然科学系教育部    25名 計 37名


○大学院(専門職学位課程)
教育学研究科       24名 計 24名

計   2,692名

大学院入学生代表者 総合科学技術研究科情報学専攻の黒田 和矢(くろだ かずや)さんから入学生宣誓がありました。

大学院入学生代表者 総合科学技術研究科情報学専攻の黒田 和矢(くろだ かずや)さんから入学生宣誓がありました。

人文学部卒業生の広瀬 恭子(ひろせ きょうこ)さんから先輩からの歓迎の言葉がありました。

人文学部卒業生の広瀬 恭子(ひろせ きょうこ)さんから先輩からの歓迎の言葉がありました。

<平成30年度静岡大学入学式学長式辞>

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。あわせて本日おいでいただいておりますご家族の皆様にも、お子様たちのご入学を心よりお祝い申し上げます。
 また、ご来賓の皆様におかれましては、お忙しいところご臨席賜りましてまことにありがとうございます。
 今年度は、学部学生2,024人、編入学13人、大学院修士課程594人、大学院博士課程37人、専門職大学院 教育実践高度化専攻24人の合計2,692人の新入生をお迎えすることができました。全学の教職員を代表致しまして、皆さんのご入学を心より歓迎します。

 本学の理念「自由啓発・未来創成」は、昭和初期の戦争とファシズムの時代に先立つ大正デモクラシーの下での自由で溌剌とした空気をいっぱいに吸い込んで産声をあげた本学が、そのような出発点に絶えず立ち返り、全学の教職員、学生が手を携えて、希望に満ちた未来を創り上げていこうとする意思を示したものです。静岡大学を自由闊達で多様性に満ちた教育・研究の場として更に発展させて行くために、若い皆さんの力を是非貸して下さい。

 今年は明治150年ということで、長い歴史の流れのなかで今という時代を見つめ直すにはよい機会です。50年前の1968年に日本は「明治100年」を迎え、江戸時代最後の元号「慶応」から「明治」への改元の日であった10月23日に政府主催の記念式典が開催されました。当時は、1955年以降の高度経済成長の下で日本経済は著しく発展し、このような強力な経済力の下で4年前にはじめての東京オリンピックを成功裏に終え、2年後の1970年には「人類の進歩と調和」をメインテーマとする大阪での世界万国博覧会の開催を予定するなど、日本社会は第二次世界大戦がもたらした破壊と貧困から完全に立ち直り、力強く前進する自らの姿に次第に自信を深めつつありました。このような繁栄を「明治維新」以降の日本の近代化・産業化の成果と考えようという発想が「明治100年」を祝うという当時の政府の姿勢の背景にはありました。
 
 これに対して当時「明治」からの「100年」という区切りの年を無批判に祝ってよいのかという意見を持つ人が多かったことも事実です。「明治」という時代の意義を強調することは、天皇が主権者であった明治憲法下の日本から国民を主権者とする日本国憲法下の民主主義国家としての新しい日本の誕生へという第二次大戦後の歴史的大転換の意義を過小評価することになるのではないか、また同時に平和主義を基本原則とする日本国憲法の価値をこのように軽視することは、第二次世界大戦で失われた日本人300万人、それ以外に中国を中心とするアジア全域では2000万人と言われる民間人を含む犠牲者に対する日本人としての歴史的責任を忘れることになるのではないか、戦争からの経済的な復興がなったからといって死者たちの記憶をないがしろにしてよいのかといった意見が代表的なものでした。当時は戦争が終わってからまだ20数年しか経過しておらず、肉親や知人を失った生々しい記憶が多くの人々に共有されていましたから、7年前の東北大震災で失われた2万人あまりの犠牲者の記憶が関係者の胸につい昨日の出来事のように深く刻まれていることを思えば、このような反応も当然のものであったのかもしれません。

 それから50年たった今、当時と順序は違いますが、再び今年2018年の「明治150年」と2年後2020年の二度目の東京オリンピックの開催を相次いで迎えることになりました。現在の日本は急速な経済成長の下にあるわけでもなく、戦争の破壊からの復興を祝いたいという高揚感にも包まれていません。「明治150年」を冠とする様々な催しや企画は計画されており、ロゴも作成されていますが、政府主催の大規模な記念式典の開催は現時点では予定されていないようです。その点では50年前と比べれば静かな雰囲気の下にあると言ってよいと思います。しかし逆にそのような条件の下だからこそ、明治維新以降の歴史や国際的なイベントの実施のもつ意味について真剣に考えるよい機会ともなっています。

 明治維新と日本国憲法のどちらを我々が今後進むべき道のスタート地点とするべきかという当時の論争は現在でも引き続き重要な意味を持っていると思いますが、ここでは少し異なった視点から考えてみましょう。それは明治時代を江戸時代からの完全な断絶と見るのではなく、むしろその形を変えた継承・発展と見るという視点です。そして徳川家と長く特別な関係にある静岡という地はこのような歴史観に立つのにふさわしい場所であると言えます。明治維新によって徳川幕府が倒された後、最後の第15代将軍徳川慶喜に続く第16代徳川家当主家達(いえさと)は静岡藩(最初は駿府藩)70万石の藩主としてこの地に移され、幽閉から解かれた慶喜も晩年東京に戻るまでのおよそ30年間を静岡市で過ごしました。静岡駅前の有名な料亭「浮月楼」は慶喜がその静岡市滞在期間の半分以上の時を費やした屋敷の跡です。ご存知のように徳川家康は現在の浜松市で有力な戦国大名としての地位を確立し、また静岡市では今川氏の人質時代から将軍職を息子秀忠に譲った後の「大御所様」の時代に至るまで断続的にかなり長い時間を過ごしており、このように静岡の地と徳川家が常に緊密な関係にあったという歴史的経緯が、明治以降の徳川家と静岡の新たな結びつきを生んだと言ってよいでしょう。

 幕府に仕えてきた優れた家臣たちの一部も家達や慶喜に付き従って静岡に移り、静岡学問所や沼津兵学校といった静岡藩の運営する学校で教育にあたった中村正直や西周、牧ノ原台地での茶畑の開墾を進めた中条景昭や大草高重、現在の商社と銀行の機能を併せ持った「静岡商法会所」を設立した渋沢栄一らがその代表的人物でした。彼らの多くはその能力を買われて、やがて東京に戻って明治政府の下で日本の近代化・文明化に大きく貢献することになります。このうち、中村正直が『西国立志編』という表題をつけて最初に静岡で出版したスマイルズの著書Self Helpの日本語訳は、家柄に関わりなく自らの努力と才覚だけで成功を勝ち取ったヨーロッパの職業人たち300人あまりの業績の紹介を通じて、当時の向上心に満ちあふれた若者たちを大いに励まし、また渋沢栄一は「銀行」「会社」から様々な社会事業に至るまで産業振興、社会政策を進める上での基礎となる近代的組織を次々と立ち上げたことでよく知られています。

 我々はしばしば忘れがちですが、歴史学者の磯田道史氏をはじめ多くの方々も指摘しているように、明治という時代は政治的には確かに江戸幕府の全面的否定の上に成立したとはいえ、文化的、社会的、経済的には長い江戸時代を通じて形成されてきた豊かな伝統を継承し、発展させてきたという側面を非常に強く持っています。事情があって結局静岡には来ませんでしたが、徳川家家臣団を代表する知識人であった福沢諭吉は、その主著である『文明論之概略』で、「文明」とは「人間交際(=人と人の交わり)」の深化・発展に他ならず、ひとり一人が自分の頭で考え、そのような基盤の上に立って自分たちとは異なった考え方をもった他者たちと積極的に交わり、そのような交渉のなかから新たな思想、文化そして国としての力の基盤となる科学技術を生み出していくというプロセスのことなのだと言っています。そしてそれぞれが自分の世界に閉じこもり、お互いの対立を暴力によってしか解決できない「野蛮」な状態を脱して自らを他者に対して積極的に開き「文明」化していくという歴史の流れは江戸、明治といった時代区分を越えた人類共通の普遍的なものであることを強調しています。彼は明治維新後、求められても決して政府の職につくことなく、一貫して民間の立場から、慶応義塾を創設した教育者として、あるいは実業家として、また『時事新報』を主催するジャーナリストしての活動を続けました。そこには、薩長を中心とする明治新政府という狭い枠に縛られることなく、日本社会全体の「文明」化を推進する担い手として働きたいという強い意思があったのです。

 沼津兵学校で学び、後に日本のアダム・スミスと呼ばれた自由経済主義の立場に立つ経済学者であり、実業家、ジャーナリスト、政治家としても活躍した田口卯吉も静岡に根をもつ徳川家臣団を代表するエリートの一人ですが、彼はまだ20代の頃に出版して広く読まれた『日本開化小史』他の著作のなかで、福沢同様社会全体の「文明化」の進展として歴史を見るという観点に立った上で、尊王攘夷に見られるような暴力的で「野蛮」な性格を本質とする薩摩や長州ではなく、二百数十年に渡って戦争のない平和的な統治を続け、その下で豊かな文化的、経済的な発展をもたらしてきた徳川家の流れを汲む者たちこそが「文明化」を推し進める原動力となりうるのだと主張しています。私自身は母が山口県出身であることもあり、このような薩長に対する評価には個人的にはやや複雑な思いもありますが、静岡に位置する大学の長としては立場上、田口の議論に肩入れしておくことにします。
 
 このような徳川家の歴史的貢献をゆかりの地である静岡から発信することをめざして、家康の死後400年にあたる2015年には静岡商工会議所が音頭をとって「徳川家康公顕彰400年記念事業」を実施し、それに2年先立つ2013年に徳川家の残した豊かな遺産の再評価に向けた「徳川みらい学会」も設立されました。今年の商工会議所主催の新年祝賀会では、現在の徳川家第18代当主徳川恒孝(つねなり)氏のご長男である第19代当主徳川家広氏がご挨拶され、日本国憲法は決して外国から押し付けられたものではなく、徳川の時代の平和主義を継承したものなのだという興味深いご発言もされています。

 またこのような徳川家の歴史的遺産は静岡大学とも直接的な関係があります。本学の工学部の前身である浜松高等工業の初代校長関口荘吉(そうきち)先生は、日本におけるテレビジョン研究の先駆けであり、先週亡くなった浜松ホトニクス会長の晝馬輝夫氏をはじめとする優れた人材を育てた高柳健次郎先生を新任の教員として暖かく迎え入れ、その研究に対する物心両面での支援を惜しまなかったすぐれた人物でした。そのお父様にあたる関口隆吉(たかよし)氏は徳川慶喜の一の家臣であり、生涯慶喜を「上様」と呼んでその静岡時代を支えました。そして明治維新以後は初代の静岡県知事として、牧ノ原台地の開拓をはじめとする静岡県の殖産興業を中心になって推し進め、ヤマハ創業者の山葉寅楠(とらくす)のよき後援者の役割も果たすなど、広い意味での静岡の「文明化」に大きく貢献しました。

 息子の荘吉氏が大正デモクラシーという時代の空気を正面から受け止め、無試験・無採点・無賞罰の「三無主義」を基本とし、生徒の主体的学習を促す「自由啓発」を新たな学校の基本理念したのもこの父親あってのことと言ってよいでしょう。ちなみに養子に出たので名字は違いますが、広辞苑の編集にあたった新村出(いずる)氏やノーベル物理学賞を受賞された朝永振一郎氏の義理の父でもあった気象学者関口鯉吉(りきち)氏はいずれも荘吉氏の弟たちで、このことからも関口ファミリーが当時傑出した存在であったことがよくわかります。本学の理念である「自由啓発・未来創成」もこのような関口校長の学校経営の理念から来ていることは言うまでもありません。その意味では、遡れば「自由啓発」の理念は大正デモクラシー的自由主義の継承という側面に留まらず、より包括的で国境を越え、時代を越えた普遍的な価値を持つ「文明化」という大きな歴史の運動の一部であると考えることもできます。

 現在世界中で自国中心主義や排外的な民族主義、核兵器をはじめとする大量破壊兵器による威嚇、人権侵害や独裁といった様々な形をとって、社会的、政治的対立を「暴力」によって解決しようとする「野蛮」な振る舞いが横行しています。このような時にこそ、「文明化」という歴史的使命を担っている者の一員として、私たちは多様な考え方や価値観に積極的に心を開き、より人と人の交わりを深めることを通じて、意見の違いを力に訴えることなく「言葉」によって乗り越えていく作法を身につけていかなければなりません。静岡大学は広い専門分野にまたがる学部・大学院を有する多様性に満ちた総合大学であると同時に、舞台の上に並んだ本学と協定を結んでいる大学、研究機関が所属する多くの国の旗が示しているように、世界各国の教職員・学生との交流を活発に進めています。そして性別、障害等を理由としたあらゆる差別を認めず、ひとり一人の大学構成員を大切にするという点も含めてすべての側面において多様性の尊重を基本とする大学でありたいと考えています。本日新たに私たちの仲間に加わった新入生の皆さん、共に学び合い、共に語り合い、そしてこの世界を少しでも住みやすい「文明」的な場所にするべく互いに手を携えて前進しましょう。

 最後にもう一度皆さんにご入学のお祝いと歓迎の言葉を述べて、私の挨拶を終えたいと思います。ご入学おめでとうございます。そして静岡大学へようこそ。



2018年4月4日
静岡大学長 石井 潔

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