令和2年度静岡大学学位記授与式(浜松地区)を挙行しました

2021/03/31
ニュース

 令和3年3月19日(金)に令和2年度静岡大学学位記授与式(浜松地区)がアクトシティ浜松を会場に行われ、学部学士課程卒業生695名、大学院修士課程修了生358名、大学院博士課程修了生16名、論文博士1名に学位記が授与されました。
 今年度は学位記授与式への出席を卒業生・修了生代表及び役員・部局長等のみに限定し、出席できない卒業生・修了生、保護者の方のためにライブ配信を実施しました。

 開式前には、静岡大学管弦楽団より「威風堂々」が演奏され、厳かな雰囲気の中での開式となりました。
石井学長からは、「日本でそして世界で様々な「悲しみ」や「苦しみ」を抱えている人々の置かれた具体的な「境遇」に常に関心を持ち、そのような境遇の改善に向けた社会変革に少しでも貢献するよう力を尽くして下さることを心から期待しています」との告辞がありました。
 また、本学在校生を代表し、工学部3年生の久保田 幹也 さんから後輩からの贈る言葉がありました。
 学業成績が優秀な卒業生(情報学部 上山 彩夏 さん、工学部 山田 幹太 さん)に対して表彰状と記念品が贈られました。
 最後に、卒業生・修了生を代表して情報学部 松本 桃果 さんから、学長をはじめとする教員等に対する謝辞がありました。

 学位記授与式閉式後は、アクトシティ、浜松キャンパス等において、学部・研究科ごとの学位記伝達式が実施されました。

令和2年度静岡大学卒業・修了者数(浜松地区)
○学部(学士課程)
情報学部      202名
工学部       493名
        計 695名

○大学院(修士課程)
総合科学技術研究科(情報学専攻、工学専攻) 358名
  
○大学院(博士課程)
光医工学研究科     3名
自然科学系教育部   13名

○大学院(論文博士)
自然科学系教育部    1名

 浜松地区合計 1,070名

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令和2年度静岡大学学位記授与式(浜松地区) 学長告辞

 ただ今、学部695名、大学院修士課程358名、大学院博士後期課程17名の方々に学位記を授与致しました。
 卒業生、修了生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。ここに、静岡大学教職員を代表して、お祝いを申し上げます。卒業生・修了生の今日のこの日を心待ちにしてこられた、ご家族・保護者の皆様にも、心よりお祝い申し上げます。

 今年度の学位記授与式は、コロナウィルスの感染防止を優先する観点から、学生の皆さんの代表や大学側の役員・部局長等の限られた出席者からなる小規模なものとせざるを得ませんでした。この後、各部局・学科単位でも学位記をお渡しする場が設けられることになりますが、共に学んできた多くの仲間たちと一同に会する機会が極めて限定された形でしか与えられないことは、大学を代表するものとしてたいへん残念に思います。オンラインで式典の映像を見ていただくことができるようにはしましたが、同じ空間を共有し、語り合い、触れ合いながら、大学生活を思い起こすという貴重な経験にはとても換えられるものではありません。

 さて今我々はまさに、パンデミックの影響による社会的・経済的危機の真っ只中にあります。しかし今回の危機には一つの際立った特徴があるように思われます。それはコロナ禍がもたらした様々な否定的影響が極めて不平等な形で現れているという事実です。具体的には、飲食業や宿泊業といった特定の業種に経済的打撃が集中していること、いわゆるエッセンシャル・ワーカーズと呼ばれる対人サーヴィスに関わる仕事に感染の危険や労働の負荷が過重にかかっていること、業績が悪化した業界において正規雇用の労働者に比べて非正規雇用の労働者が解雇や休業に追い込まれるケースが圧倒的に多いこと、さらにステイホームの影響等も含めて男性よりも女性に大きなストレスがかかっていること等をあげることができます。世界的にBlack Lives Matterの運動が巻き起こったことの背景にこのような意味での不平等があることもしばしば指摘されています。自由・平等・博愛の旗を掲げたフランス革命に象徴されるように、封建的な身分制社会には存在しなかった「すべての人間は平等である」、福澤諭吉の有名な言葉を借りれば「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という理念こそが近代市民社会を支える根本的な原理だったはずですが、今回のパンデミックを通じて、世界各地でこの平等原理の脆弱さが露わになってしまったと言わざるを得ません。
 近代市民社会成立期に登場した代表的な哲学的理論に「社会契約論」という考え方があります。その代表的な思想家は一七世紀英国の哲学者ホッブズですが、彼は社会が存在する以前の自然状態においては「人間は人間にとって狼であった」という前提から出発します。そこでは人間は常にお互いに隙あらば相手の命を奪ってでも、他者の所有物を我が物としようと虎視眈々と狙っていたので、誰一人として自らの安全を確信することができず、誰もが絶えずいつ殺されるかもわからないという不安と恐怖に怯えていたと彼は主張しています。しかし人々はやがてこのような恒常的な「死の恐怖」に耐えかねて、お互いに契約を結び、力によって争いを抑え、人々に安全を保障してくれる権力者に社会の統治を委ねることにしたのだと彼は考えます。この「社会契約」によって成立する社会状態の下で、ようやく人々は自然状態の下での「死の恐怖」から解放されたというわけです。私自身もそうでしたが、多くの高校生は世界史や倫理の教科書でこのようなホッブズの思想を学ぶと、当然と言えば当然ですが、人間が互いに狼であるというこのようなペシミスティックな人間観に同意することができず、実際の人間はもっと思いやりに満ちた善き存在なのではないかという疑問を持ちます。しかしこのようなホッブズの思想の根底にあるのは、極めてラディカルな平等主義です。
 彼は言います。人間のなかには能力の不平等があり、相手を圧倒する肉体的能力や頭の良さを備えた人間もいれば、個人としてはそれに劣る能力しか持たない人間も存在する。しかしいかに力持ちの喧嘩の強い個人であろうとも寝込みを何人もが力を合わせて襲えばその命を奪うことができる。つまり個人間の能力の差は、一人の個人が自分だけの力で自分の身の安全を保障できるほどには大きくない。従って社会の助けなしに生きることができる人間は一人もいないという意味で、人間は基本的には平等であるというのが彼の主張なのです。ここには人間には能力の差があるのだから不平等は当然だという不平等肯定論とは対極の発想があります。人間は社会という場においてお互いに支え合うことがなければ一日たりとも安心して生きていくことはできないのだというのが彼の最も言いたいことだったのです。
 時代は少し下り一八世紀になりますが、主著である『国富論』において経済の領域ですべてを市場に委ねる自由放任主義を唱え、現代における新自由主義の元祖であるとも見られている思想家に同じく英国で活躍したアダム・スミスがいます。レッセ・フェール(フランス語で「なすに任せよ」という意味ですが)という言葉が彼のこのような立場を示すものとしてよく引き合いに出されます。しかしスミスには『道徳感情論』という表題のもう一つの重要な著作があります。ここでスミスは道徳的判断の基準として、「同感(sympathy)」という「感情(sentiment)」の重要性を強調しています。ここで言う「同感」は我々自身を彼/彼女の境遇に置く「想像力(imagination)」によって生み出されます。例えば自分が苦労して経営してきた居酒屋がコロナ禍でやっていけなくなって嘆き悲しむ主人に我々は「同感」します。そのような境遇に置かれれば自分もまた嘆き悲しむであろうと「想像」し、そのような境遇に置かれた主人を救うことができない社会の在り方を不当であると考え、自分自身でもできる限り手助けをしようと努力し、政府に対して適切な救済策を取るように要求します。これに対して、例えば居酒屋の経営が傾いた理由が、このような不可抗力ではなく、単なる主人の放漫経営だとすれば、誰も彼/彼女の流す涙に「同感」することはありませんし、よっぽど親しい友人でもなければ手を差し伸べようともしないでしょう。アダム・スミスの言葉を借りれば、我々は他者そのものに「同感」するのではなく、他者の置かれた具体的な「境遇(situation)」に「同感」するのです。このような「同感」の構造は、我々が自分自身の行動を律する原理ともなっていると彼は考えます。明らかに自分に責任のある失敗によって自らの身に降り掛かった災難をいつまでも嘆いていても誰も「同感」してくれないだろうと我々は「想像」します。そして無駄な涙を流すのはやめて、最善の解決策は何かを真剣に考え、それを実際の行動に移します。このように『道徳感情論』では、それぞれの人が自らの置かれた具体的な「境遇」においてどのように振舞うべきかという道徳的判断の基礎にこのような「同感」があるとされるのです。
 アダム・スミスは決してすべての失敗を自己責任に帰して、社会において人々が互いに助け合うことを否定するという意味での自由放任主義者ではありませんでした。自分ではどうしようもないような「境遇」に置かれた人々に深く「同感」し、彼/彼女たちをそのような「境遇」に追い込んだ社会の仕組みを変えるために手立てを尽くすことはすべての人間にとって道徳的な義務であると彼は考えていたのです。身分や出自、能力や性別に関わらず、不当な「境遇」に置かれても良いような人は誰もいないというホッブズ同様のラディカルな平等主義がここにはあります。
 リン・ハントというアメリカの思想史研究者は『人権を創造する(Inventing Human Rights)』という著書のなかで、近代社会にすべての人間はその権利において平等であるとする普遍的な人権思想が根付くことができたのは、このような不当な「境遇」に置かれた人々に対する「同感」が広く社会的に共有されたからだと主張しています。そしてスミスと同時代の一八世紀に流行した「センチメンタル小説」という新たなジャンルの作品群がこのような「同感」形成において大きな役割を果たしたことを強調します。ルソーの『新エロイーズ』やリチャードソンの『クラリッサ』といった書簡体の作品がその代表的なものですが、これらの作品の読者たちは、架空の物語の主人公たち-とりわけ女性の主人公たち-の置かれた不幸な「境遇」に深く「同感」します。ここで重要なのは、読者たちが「同感」する不幸な「境遇」に置かれた物語の主人公たちの「悲しみ」は、彼/彼女たち自身の「悲しみ」ではないということです。スミスは『道徳感情論』の冒頭で「同感」という「感情(sentiment)」は何よりもまず「他の人々の悲しみから悲しみを引き出す」能力であると定義していますが、このような「想像力」に基づく他者の「感情」への「同感」こそが一八世紀に登場したまったく新たな「感情」としての「センチメント」なのです。市民社会成立以前の身分制社会においては、身分の違いを越えて広く他者一般に「同感」するという「感情」が存在する余地はありませんでした。すべての人間が平等であるという原理の上に立つ新しい社会の成立が「センチメント」という新しい感情の必要条件なのです。そしてこのような感情があって初めて、我々は自分たちと直接関係のない他者たちの不幸な「境遇」を我が事として受け止め、そのような「境遇」に他者たちが置かれていることの不当性に「憤り」を感じます。すべての人間が等しく「基本的人権」を持っているという抽象的な思想が真の意味で力を得ることができるようになるためには、すべての人類は自分と同じ人間であり、彼/彼女たちの「悲しみ」や「喜び」は同時に自分自身の「悲しみ」や「喜び」でもあるという「想像力」に基づく「同感」つまり「センチメント」の成立が不可欠であったというのがハントの主張の核心なのです。
 「センチメンタリズム」という言葉は、しばしば「感傷主義」と訳され、表面的な感情に流される浅薄な態度であると考えられています。しかし、私たちがマスコミやインターネットのニュースで、コロナ禍に苦しむ人々や難民として国を追われた人々、香港や新疆ウイグル自治区で圧倒的な国家権力によってその声を奪われている人々などの「悲しみ」や「苦しみ」に我が事として深く「同感」し、彼/彼女たちを救うために自分には何ができるだろうかと真剣に考えることは、我々が生きているこの社会における抑圧や不平等を少しでも軽減し、より良き社会に変えていく上での大きな力になります。アニメやテレビドラマ、映画や文学作品などのフィクションの世界でも、我々は不当な権力による支配や経済的格差、社会的差別の下に置かれた登場人物の「悲しみ」や「苦しみ」に、またそのような状況を打開するために果敢に戦う主人公たちの「勇気」や「葛藤」に深く「同感」し、彼/彼女たちに声援を送ります。『半沢直樹』や『鬼滅の刃』に登場する架空の人物たちの「憤り」や「悲しみ」への「同感」とそのために我々が流す涙は確かに「センチメンタル」なものですが、このような「センチメンタリズム」は、現実の社会における様々な不正や抑圧に対して我々が持つ「憤り」や「悲しみ」と同質なものであり、自分たちと直接利害関係のない他者であっても、彼/彼女たちが不当な「境遇」に置かれていることを同じ人間として決して許すことはできないという、ラディカルな平等主義の上に立つ近代市民社会においてのみ成立する特殊な感情の構造なのです。
 コロナ禍に伴い我々の社会が本来寄って立つべき基本的人権の思想や平等主義が大きく損なわれてしまっていることが明らかになっている今、改めて近代市民社会成立の原点に立ち戻り、自分の周囲の狭い人間関係内部の幸福に閉じこもることなく、すべての人間に対して等しく開かれた「センチメント」に基づいて行動することが求められています。これから社会に出て行くことになる若い世代の皆さんにも、是非大きく目を見開いて、良い意味での「センチメンタル」な物語に共感することのできる豊かな感受性を育むと同時に、日本でそして世界で様々な「悲しみ」や「苦しみ」を抱えている人々の置かれた具体的な「境遇」に常に関心を持ち、そのような境遇の改善に向けた社会変革に少しでも貢献するよう力を尽くして下さることを心から期待しています。
最後になりますが、もう一度卒業生、修了生の皆さんにお祝いの言葉を申し上げて、私からのはなむけの言葉と致します。本日は誠におめでとうございました。

二〇二一年 三月一九日
静岡大学長 石井 潔

【写真:左より】
・式典では、代表者へ学位記が授与されました
・学長から卒業生・修了生に向けて、今後の活躍を期待し、告示がありました
・成績優秀者に表彰状と記念品が贈られました
・卒業生・修了生を代表して情報学部 松本 桃果 さんから謝辞がありました

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