【第97回 2016.12.12】

歴史とは?

投稿者:山内 良平(昭和44年工学部精密工学科卒)

 勤務していた企業を退社してから約7年経過しました。退社し第二の人生開始の時何をやりたいかは大凡考えていました。大学時代買い込んで山積みにしていた、専門書や歴史書などを非常に読みたくなりました。

 

 最近、近くの国と日本との間で、歴史という言葉が頻繁にマスコミに取り上げられています。歴史とは一言でいうと事実と事実を繋いだ時間の流れとでもいうのかもしれません。今までは歴史書に記述されたことが真実だと思っていましたが、ふと思い直してみると、自分の目の前にある新聞の一面に記述されているニュースに記述されていることが各社(朝日、毎日、読売、サンケイ等)異なります。

 

 またTVで放映される内容も各社微妙に異なったり、大きく異なったりします。そのうち歴史として記述され残されるのはどれになるのでしょうか?例えば毎年8月15日になると靖国神社に閣僚が参拝するしないと大騒ぎになります。自分でふと気が付いたことは、多くのマスコミの記述の内容が賛成から反対までありました。ではこのように政治的要素のある出来事がいかにして歴史として残るのか疑問が残ります。自分で勝手に考えた範囲では、例えば上記の靖国神社の記事がA級戦犯と一般の戦死者の合祀に対し特定の人の合意でなく数百人以上の人々が合意した場合は合祀がある程度合理性のある事実になるのかもしれません。

 

 一方科学の世界は科学者が仮説をたて理論構築をし世に発表した場合は多くはそれに興味を持った科学者あるいは同類の研究を行っている科学者が検証をしたり再実験をしたりして矛盾がないかどうかを確かめます。その結果は多くの場合一つの事実に収斂します。

 

 とにかく政治、経済、文化(音楽、芸術等)はある一つの事実になりにくいと思います。したがって後世になると余計事実の整理がつきにくく一つの事実に収斂しにくいと考えます。今読んでいる日本史、世界史の本を読むにあたって、半分疑って読んだ方がよいと自分に言い聞かせているしだいです。最近の出来事の例としてイラク戦争を例にとりますと、戦場の取材ができたのはNHKだけです。理由は戦時下で記者の安全をアメリカに守ってもらっていました。したがって日本に伝わってくるニュースはほとんど一人の人間が取材したニュースしかありません。


 また近々の例として東京都の築地市場が豊洲に移転するにあたっての様々な出来事も大勢の人がかかわっているにもかかわらず、はっきりした事実は不明のままです。 最近ほぼ毎日TVで放映され小池新都知事が記者会見をして発表してますが、いまだはっきりした事は確定しません。この件に関して多人数の人々がかかわっているにも関わらず、個人の立場利害が絡んで、結局最終的には不明のままに終わってしまいそうです。無駄な税金が捨てられていくようです。


 歴史を考えるうえで事実、を各人が広い視野に立ち可能な限り正確に理解し、事実から得られた価値や考え方を、学者や専門家だけでなく一般人も多くの人々と情報を共有し、理性的な 世界を構築(例えば国家と国家の政治体制、価値感が異なっても戦争や紛争を起こさない)することが大事なことだと考えます。


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